再現性のある助言の尊重
人生に悩みが尽きない私のような人たちは、第三者からの意見を求め、それに耳を傾けることが多いと思います。 他者からの助言は、自身のあり方を見つめ直し、悩みをある程度、晴らすことにもつながると思います。 しかし同時に、助言を受けようという姿勢が過度になると、他者の敷いたレールを走ることになったり、「おしえてくん」になったり、あるいはエコーチェンバー現象の中に閉じ込められたりして偏った意見を持ってしまいがちです。 特に、インターネット上にある助言や武勇伝などの多くは、自身の過去の検索や好みに基づくものであったり、あるいは自身でなく他の人が大事だと思ったものに偏ってしまいます。 そうした情報をもとに自身の意思決定を行なうためには、逆説的ながら、そうしたストーリーを分析できるだけの余裕・思慮・判断が必要となります。 それができているなら誰も迷ったりしないわけです。
それにそもそも、そういう助言は、あなた特有の、あなただからこその背景を、一切考慮していないわけです。どのような悩みにも文脈、つまり背景があります。 背景抜きの悩みであれば、その悩みはあなた自身の固有背景すべてから切り離された問題であって、解決策を実行可能か、解決策の存在がわかるか、あるいは解決策が存在しない、 といった比較的単純なクラスの問題に縮約できるはずです。
たとえば、料理をしている人が「ピーマンをどうやって切って、どこを可食部として残そうか?」という問題に直面したとき、(話し手がピーマンアレルギーであるとか、ナイフを使ったことが全くないとか、そういう非常に特殊な前提がない限りは) 自明な解決策があります。「一緒に切る」、「動画を観る」、「やってみる」。 これらで解決できることが多いです。 そのような単純化可能性は非常に重要なことです。 それで解決できる問題であれば、それが一番よいし、どのようなクラスの問題であれば単純化可能か、といったことがわかるためです。 直接的に問題が解決せずとも、問題を単純化するということは、迷いに起因する不確実性が下がります。 とはいえ、大体は悩みの因果に関わる背景が存在するはずです。その背景抜きに解決できない問題を抱えていることが多いでしょう。
立場が変わって、助言を求められることもあるはずです。「どうすればよいでしょうか?」という素朴な訴求もあれば、時には背中を押してほしいだけのこともある。 そういうときに助言を行なうというのは、機知に富む対応が必要となるはずで、実はとても難しいことです。 しかし、かといって「いや、私には助言はできません」という回答では、相手との意思疎通にはならないわけです。 だから何か言う。では何を言う?どう言う?どのように伝える?
科学者であれば、この点に関しては、明確なアプローチが少なくとも1つあります。どのような助言を、受け手あるいは為し手として、尊重するべきか。 私は、再現性のある助言を重視すべきと考えます。 再現性をもった意見とはなにか? 再現性というのは科学の構成要件の一つでもありますが、 先程のピーマンの例でいえば、助言を求められた人と一緒に行なったり、あるいは動画を観て行なうことが可能ですし、これらの情報は再現性がある程度は保証されています。 色々と複雑な背景が込み入っている場合でも、その背景、つまり迷いを迷いたらしめている要因を特定することによって、ある程度は確度の高い助言、 いうなれば不確実性の低い助言を行なうことが可能です。
どうして再現性が必要かというと、人生は一度だからに他なりません。 私は、自分以外の人生を経験していません。だから助言は経験に基づいて行われる傾向にあります。 しかし誰も、そんな私のこれまでの人生をトレースできません。 それでも、人生の中には、再現可能な要素があるはずです。 そこをうまく抽出することができれば、助言を行なうことは可能かもしれません。 再現性のある助言は、「これをしたのがまずかった。あれをしておいたほうが良かった可能性がある。」 という失敗談も含まれます。 逆に、「これをしたらうまくいったよ」という成功談に基づく助言は、特殊な背景に起因する、あるいは「生存者バイアス」に基づくものである可能性があるため、 再現性に関しては不明なので要注意です。 ただ、そうした成功談が、ある程度は型にはまったものの場合は、うまくいくこともあります。この点に関しては例を用いて後述します。
特に、もしも悩みに対して、科学的分析がされた資料がある場合、科学的根拠のある助言も、再現性があります。 たとえば、「大学の講義についていけないです」という悩みを相談されたとします。 そのときに「大学の講義って、そんなもんだから」という主観的体験 (正確には、「他の人も経験していると私は考えている」、という主観的客観) を助言として与えたとしても、問題は解決しないでしょう。 一方で、「予習をしてはどうか」、「複数の学習法を混ぜてみてはどうか」、といった助言はどうでしょうか。 じつは、これらの方法にはある程度の効果が見込まれることが知られています (予習はflipped learning、学習法の混合はblended learningといいます)。 実際、私は高校生・大学生の頃は、講義の予習・講義の復習・講義に関する勉強の自習を心がけていました。 特に、「予習は復習を兼ねる」というモットーで、とにかく予習を進めて、講義は聞くだけ、という勉強方法をとっていました。 もちろん、すべての講義に対して行なっていたわけではありません。予習が原理的に困難な講義の場合は、復習を行ない、教科書を読み、友達と議論したりしていました。 私は即興で物事を理解するよりも、じっくり時間をかけて理解したいタイプだと知っていたからです。 つまり私の方法は偶然ながら、予習と復習を組み合わせており、上の文献から示唆される形で、再現性があるやりかたであった、と言えるかもしれません。
また例を挙げましょう。研究では、大学院にしろ学会にしろ、国外経験をする機会も多いです。眼の前の修士課程の学生が、「外国へ行くべきか?」という迷いを持っていたとしましょう。 どのような形で国外へ行くにしろ、開口一番の「海外へ行くといい。大学院は無料なので、日本の大学院に行くより安い。」は極めて再現困難な助言です。 助言を求める方は女性ですか、男性ですか?家族はどこに住んでいますか? 家族の方の体調は万全であり、その点に関しては安心して渡航できるという状況ですか? たとえば既往症などをお持ちで、病院に定期的に通っていますか? 外国の家賃は高いことも多いのですが、その点はどうですか?払えますか? シェアハウスを選ばざるを得ない人もいますが、シェアハウスで住むことでリラックスできるタイプの方ですか? あるいは他の事由はありますか? こうした事情・背景を汲み取ったうえで判断された、総合的助言と解釈可能ですか? 文脈にそぐわないため、再現不可能です。
あるいは、そうした助言を行なう者が、実は帰国子女でご両親もまさにその国に住んでいた、という状況だったとしたら、助言を請う者に特殊な事情がなかったとしても、再現性は低いはずです。 ご両親の(ある程度)近くで安心して生活できる。帰国子女なので英語もできる。こうした違いは非常に重大な違いをもたらすはずです。 これは助言ではありません。ドグマといいます。
国外に行くべきか問題については、再現性のある助言が非常に難しいはず。だから大事なのは、「いろいろな形で外国には行けるよ」ということを伝えることではないでしょうか。 そのうえで、本人が決めたら良いことです。 (ただし、私は「若いうちに外国に行く様々なハードルは、年を取ってから行くよりも、低い」とは思います。 これは、理由は色々ですが、加齢にともなって、飛行機や時差ボケなどの体調管理が難しくなること、などが挙げられると思います。 他にも、言語を学ぶ意識などについても、若い頃の外国語への暴露は重要、というのはあるのかもしれません。)
一方で、助言を請いたい者が「論文のイントロの書き方がわからない」という迷いを持っていたとします。 これは、ある程度は作法が決まっているので、それを教えれば再現性を確保できます。 もしもイントロを書くスキルをまだ身につけていない方が助言を請うている場合は、(大意から言えば)「執筆練習からスタートしよう」と伝えるでしょう。しかしこれも、背景あってこその助言ですよね。 もちろんイントロを書くにしてもいろいろなやり方はありますが、そのやり方を試してみて、自分の納得がいくか、という反省で、反証も可能です。 それに、Scientific Writingの本は数多あるわけで、そこには豊富な客観的情報も含まれており、再現性も高い。
他にも、「数理生物学を勉強したいのですがどの本がおすすめですか?」という問題も、質問者の数学的・生物学的背景を知っておくことで、ある程度は再現性のある助言として「おすすめの本リスト」を提示することが可能です。 ただただ中身について説明しているだけのリストの提示だけでは再現性を担保することは難しいでしょう。 しかし実際に本屋で手にとってみて開いてみることで中身を確認することはできなくはないので、再現性はあるはずです。 本屋さんは数が減ってしまっていますが、これは学習の再現性を低めていると言えるでしょう。とても悲しいことです。
だから私は、「良い助言」(が存在すると仮定した場合)ができるかどうかの判断には、再現性の担保を重視します。 助言するフリをしてhumble bragしているだけの人もいますが、自慢に再現性はありません。だから聞き流せばよいのです。 聞き流せばよいのだという判断ができるのは、再現性を重視するためです。 また、いわゆる「生存バイアス」の強い意見は、再現性が低いはずです。統計学ではcherry pickingといい、再現性を低めるプロトコルですね。 逆に、相互のいろいろな事情(助言する側とされる側の事情、あるいはその共通部分)の明確な助言は、再現性が高いこともあります。 たとえば、女性が海外に留学する際、治安の問題そして治安による高家賃の問題は、男性よりも顕著ですよね。そうした事情を共有したうえで行える助言は、やはり参考になることが多いはずです。 とにかく再現性。人生に再現性はないけど、再現性があることもある。 そこを文脈・背景に即して的確に掴み、再現性のある助言を行なうために勉強し、 伝えるのが、助言する側の責任であると私は考えます。
ちなみに研究の世界にも、ある程度はゲーム感覚で進められるプロセスが存在するのは事実です。そこについては「攻略本」のようなものも最近は数多く出ていますから、参考にされると良いのかもしれないと思います。 しかしかといって、アカデミアの多くを攻略可能なゲーム構造にしてしまうことは、(たぶん)格差を減らす効果はありますが、研究業界の多様性を低下させてしまうと思います。 このあたりのバランス感覚は難しいところです。格差是正と多様性維持は、時として対立することもありますからね。
本ウェブサイトにも、たくさんの情報があるはずです。これら情報は、(私にそのつもりがなくとも)助言と解釈することも可能です。 そういうわけで、独りよがりな助言とならないよう、なるべく再現性が高い形で、情報を残していきたいと思います。