人生に悩みが尽きない私のような人たちは、第三者からの意見を求め、それに耳を傾けることが多いと思います。 他者からの助言は、自身のあり方を見つめ直し、悩みをある程度、晴らすことにもつながると思います。 しかし同時に、助言を受けようという姿勢が過度になると、他者の敷いたレールを走ることになったり、「おしえてくん」になったり、あるいはエコーチェンバー現象の中に閉じ込められたりして偏った意見を持ってしまいがちです。 特に、インターネット上にある助言や武勇伝などの多くは、自身の過去の検索や好みに基づくものであったり、あるいは自身でなく他の人が大事だと思ったものに偏ってしまいます。 そうした情報をもとに自身の意思決定を行なうためには、逆説的ながら、そうしたストーリーを分析できるだけの余裕・思慮・判断が必要となります。 それができているなら誰も迷ったりしないわけです。
それにそもそも、そういう助言は、あなた特有の、あなただからこその背景を、一切考慮していないわけです。どのような悩みにも文脈、つまり背景があります。 背景抜きの悩みであれば、その悩みはあなた自身の固有背景すべてから切り離された問題であって、解決策を実行可能か、解決策の存在がわかるか、あるいは解決策が存在しない、 といった比較的単純なクラスの問題に縮約できるはずです。
たとえば、料理をしている人が「ピーマンをどうやって切って、どこを可食部として残そうか?」という問題に直面したとき、(話し手がピーマンアレルギーであるとか、ナイフを使ったことが全くないとか、そういう非常に特殊な前提がない限りは) 自明な解決策があります。「一緒に切る」、「動画を観る」、「やってみる」。 これらで解決できることが多いです。 そのような単純化可能性は非常に重要なことです。 それで解決できる問題であれば、それが一番よいし、どのようなクラスの問題であれば単純化可能か、といったことがわかるためです。 直接的に問題が解決せずとも、問題を単純化するということは、迷いに起因する不確実性が下がります。 とはいえ、大体は悩みの因果に関わる背景が存在するはずです。その背景抜きに解決できない問題を抱えていることが多いでしょう。
立場が変わって、助言を求められることもあるはずです。「どうすればよいでしょうか?」という素朴な訴求もあれば、時には背中を押してほしいだけのこともある。 そういうときに助言を行なうというのは、機知に富む対応が必要となるはずで、実はとても難しいことです。 しかし、かといって「いや、私には助言はできません」という回答では、相手との意思疎通にはならないわけです。 だから何か言う。では何を言う?どう言う?どのように伝える?
科学者であれば、この点に関しては、明確なアプローチが少なくとも1つあります。どのような助言を、受け手あるいは為し手として、尊重するべきか。 私は、 再現性のある助言を重視すべき と考えます。 再現性をもった意見とはなにか? 再現性というのは科学の構成要件の一つでもありますが、 先程のピーマンの例でいえば、助言を求められた人と一緒に行なったり、あるいは動画を観て行なうことが可能ですし、これらの情報は再現性がある程度は保証されています。 色々と複雑な背景が込み入っている場合でも、その背景、つまり迷いを迷いたらしめている要因を特定することによって、ある程度は確度の高い助言、 いうなれば不確実性の低い助言を行なうことが可能です。
どうして再現性が必要かというと、 人生は一度だから に他なりません。 私は、自分以外の人生を経験していません。だから助言は経験に基づいて行われる傾向にあります。 しかし誰も、そんな私のこれまでの人生をトレースできません。 それでも、人生の中には、再現可能な要素があるはずです。 そこをうまく抽出することができれば、助言を行なうことは可能かもしれません。 再現性のある助言は、「これをしたのがまずかった。あれをしておいたほうが良かった可能性がある。」 という失敗談も含まれます。 逆に、「これをしたらうまくいったよ」という成功談に基づく助言は、特殊な背景に起因する、あるいは「生存者バイアス」に基づくものである可能性があるため、 再現性に関しては不明なので要注意です。 ただ、そうした成功談が、ある程度は型にはまったものの場合は、うまくいくこともあります。この点に関しては例を用いて後述します。
特に、もしも悩みに対して、科学的分析がされた資料がある場合、 科学的根拠のある助言も、再現性があります。 たとえば、「大学の講義についていけないです」という悩みを相談されたとします。 そのときに「大学の講義って、そんなもんだから」という主観的体験 (正確には、「他の人も経験していると私は考えている」、という主観的客観) を助言として与えたとしても、問題は解決しないでしょう。 一方で、「予習をしてはどうか」、「複数の学習法を混ぜてみてはどうか」、といった助言はどうでしょうか。 じつは、これらの方法にはある程度の効果が見込まれることが知られています (予習はflipped learning、学習法の混合はblended learningといいます)。 実際、私は高校生・大学生の頃は、講義の予習・講義の復習・講義に関する勉強の自習を心がけていました。 特に、「予習は復習を兼ねる」というモットーで、とにかく予習を進めて、講義は聞くだけ、という勉強方法をとっていました。 もちろん、すべての講義に対して行なっていたわけではありません。予習が原理的に困難な講義の場合は、復習を行ない、教科書を読み、友達と議論したりしていました。 私は即興で物事を理解するよりも、じっくり時間をかけて理解したいタイプだと知っていたからです。 つまり私の方法は偶然ながら、予習と復習を組み合わせており、上の文献から示唆される形で、再現性があるやりかたであった、と言えるかもしれません。
また例を挙げましょう。研究では、大学院にしろ学会にしろ、国外経験をする機会も多いです。眼の前の修士課程の学生が、「外国へ行くべきか?」という迷いを持っていたとしましょう。 どのような形で国外へ行くにしろ、開口一番の「海外へ行くといい。大学院は無料なので、日本の大学院に行くより安い。」 は極めて再現困難な助言です。 助言を求める方は女性ですか、男性ですか?家族はどこに住んでいますか? 家族の方の体調は万全であり、その点に関しては安心して渡航できるという状況ですか? たとえば既往症などをお持ちで、病院に定期的に通っていますか? 外国の家賃は高いことも多いのですが、その点はどうですか?払えますか? シェアハウスを選ばざるを得ない人もいますが、シェアハウスで住むことでリラックスできるタイプの方ですか? あるいは他の事由はありますか? こうした事情・背景を汲み取ったうえで判断された、総合的助言と解釈可能ですか? 文脈にそぐわないため、再現不可能です。
あるいは、そうした助言を行なう者が、実は帰国子女でご両親もまさにその国に住んでいた、という状況だったとしたら、助言を請う者に特殊な事情がなかったとしても、再現性は低いはずです。 ご両親の(ある程度)近くで安心して生活できる。帰国子女なので英語もできる。こうした違いは非常に重大な違いをもたらすはずです。 これは助言ではありません。ドグマといいます。
国外に行くべきか問題については、再現性のある助言が非常に難しいはず。だから大事なのは、「いろいろな形で外国には行けるよ」ということを伝えることではないでしょうか。 そのうえで、本人が決めたら良いことです。 (ただし、私は「若いうちに外国に行く様々なハードルは、年を取ってから行くよりも、低い」とは思います。 これは、理由は色々ですが、加齢にともなって、飛行機や時差ボケなどの体調管理が難しくなること、などが挙げられると思います。 他にも、言語を学ぶ意識などについても、若い頃の外国語への暴露は重要、というのはあるのかもしれません。)
一方で、助言を請いたい者が「論文のイントロの書き方がわからない」という迷いを持っていたとします。 これは、ある程度は作法が決まっているので、それを教えれば再現性を確保できます。 もしもイントロを書くスキルをまだ身につけていない方が助言を請うている場合は、(大意から言えば)「執筆練習からスタートしよう」と伝えるでしょう。しかしこれも、背景あってこその助言ですよね。 もちろんイントロを書くにしてもいろいろなやり方はありますが、そのやり方を試してみて、自分の納得がいくか、という反省で、反証も可能です。 それに、Scientific Writingの本は数多あるわけで、そこには豊富な客観的情報も含まれており、再現性も高い。
他にも、「数理生物学を勉強したいのですがどの本がおすすめですか?」という問題も、質問者の数学的・生物学的背景を知っておくことで、ある程度は再現性のある助言として「おすすめの本リスト」を提示することが可能です。 ただただ中身について説明しているだけのリストの提示だけでは再現性を担保することは難しいでしょう。 しかし実際に本屋で手にとってみて開いてみることで中身を確認することはできなくはないので、再現性はあるはずです。 本屋さんは数が減ってしまっていますが、これは学習の再現性を低めていると言えるでしょう。とても悲しいことです。
だから私は、「良い助言」(が存在すると仮定した場合)ができるかどうかの判断には、再現性の担保を重視します。 助言するフリをしてhumble bragしているだけの人もいますが、自慢に再現性はありません。だから聞き流せばよいのです。 聞き流せばよいのだという判断ができるのは、再現性を重視するためです。 また、いわゆる「生存バイアス」の強い意見は、再現性が低いはずです。統計学ではcherry pickingといい、再現性を低めるプロトコルですね。 逆に、相互のいろいろな事情(助言する側とされる側の事情、あるいはその共通部分)の明確な助言は、再現性が高いこともあります。 たとえば、女性が海外に留学する際、治安の問題そして治安による高家賃の問題は、男性よりも顕著ですよね。そうした事情を共有したうえで行える助言は、やはり参考になることが多いはずです。 とにかく再現性。人生に再現性はないけど、再現性があることもある。 そこを文脈・背景に即して的確に掴み、再現性のある助言を行なうために勉強し、 伝えるのが、助言する側の責任であると私は考えます。
ちなみに研究の世界にも、ある程度はゲーム感覚で進められるプロセスが存在するのは事実です。そこについては「攻略本」のようなものも最近は数多く出ていますから、参考にされると良いのかもしれないと思います。 しかしかといって、アカデミアの多くを攻略可能なゲーム構造にしてしまうことは、(たぶん)格差を減らす効果はありますが、研究業界の多様性を低下させてしまうと思います。 このあたりのバランス感覚は難しいところです。格差是正と多様性維持は、時として対立することもありますからね。
本ウェブサイトにも、たくさんの情報があるはずです。これら情報は、(私にそのつもりがなくとも)助言と解釈することも可能です。 そういうわけで、独りよがりな助言とならないよう、なるべく再現性が高い形で、情報を残していきたいと思います。
数理生物学・理論生物学において最も基礎的な数理的な手法は、間違いなく微積分と線形代数です。 むしろ、研究で出会うほぼすべての数学は、これら微積・線形でカバーされると言っても過言ではありません。 これらの単元は、大学の教養講義で学ぶものであり、それらの講義も一生懸命修めることを目指すと良いと思います。
しかし、大学の単元は非常に基礎的であり、数理生物学に実際にどう応用するか、という部分については説明を受けることは少ないと思います。 そのため、やる気を出して大学数学の教科書を読み始めたとしても、数理生物学との関係性は見いだしにくいと思います。 どのような数学を学んでも数理生物学には役に立ちますが、 工学・物理学などへの応用を意識した教科書を選んだほうが、豊富な具体的な例で直感をやすいかもしれません。
特に、具体例を用いて理解を深めると良いと思います。 私が「この具体例、いいな」と感じるのは、なんと言おうと、非自明で最もシンプルな例です。そういう例を構成できるようになれば、その単元についての理解が深まっているとも言えます。 あるいは、非自明で最もシンプルな反例についても議論できると尚良しです。
なお、実務的に直面する問題が、実は高校数学で解けることも多いです。 ただ、残念ながら高校数学では、「偏微分」や「固有値」、「固有方程式」、などの計算を行いこそすれど、名前ある概念として学ぶことがありません。 とはいえ、概念としては知らずとも、具体的な計算手法については学んでいることが多いのです。 実際、知らないうちに計算させられていた・解かされていた問題はたくさんあると思います。 たとえば、二次方程式の根の数・配置問題は、幾度となく解かされたものだと思います。 これらは、固有値の場所を決定するうえで基本的なアプローチなのですが、 研究においても、固有値の配置の分析は頻繁に登場するクラスの問題です;たとえば、個体群動態の安定性は、固有値を用いて議論することができます。 なので、必要に応じて高校数学についても思い出すのも重要であると思いますし、「あのときに解かされた問題の背景は、これか」という納得にもつながりやすいと思います。
また、
さらに抽象的な数学についても、学んでおくと、解析の見通しが良くなることは多いです。 抽象化というのは、なにか事物を具体的に計算するうえで便利なことも多いのです。 たとえば、集合位相論、測度論、多様体論、群論、複素関数論あたりは、やはり大学初年度あるいは二年目に習うことが多いと思いますが、 これらはやはり数学の中で言えば基礎的単元(あるいは「数学的常識」)であり、将来的には既視感をおぼえやすい概念の習得に有用であると思います。 他にも、統計物理学、熱力学、情報理論、グラフ理論、数理工学など、どんな数学を学んでいても、数理生物学における解析の見通しを立てる役に立つと私は思います。
どんな数学を学ぶにしろ、研究で登場した具体的問題を解決するために学ぶ数学のほうが身に付きやすいと思います。 勉強は責任が伴わないし楽しいですが、まずは研究で使うのだ、という明確な目標があったほうが、やる気も維持しやすいと思いますし、効率的に学習を進められると思います。 目安として、一週間勉強しても、自分の研究との結びつきにピンとこない場合は、学習を立ち止まり、研究に戻って違うアプローチを検討しても良いと思います。
研究セミナーの準備と本番
大学院に進学すると、研究室のセミナー(いわゆるドイツ語の「ゼミナール」)に参加し発表する機会が増えると思います。 勉強した内容や、読んだ論文の内容、あるいは自分が調べている内容について紹介・発表する「輪講ゼミ」の準備について考えたいと思います。
■ 輪講ゼミの準備
輪講ゼミの題材が、論文なのか教科書なのかにも多少はよりますが、ここでは教科書を想定します。 まず、発表の日付が迫ってきた(一週間前など)で、発表内容についての予告をするとよいです。 そうすると運営者含む聴講者たちが輪講予習に必要な時間についての目安を立てることができます。
なお、予告するうえでは、
- 概要と範囲
- 日付と時刻
- 不明な箇所(と、それに対する自分なりの理解・解釈)
を提示すると良いです。 ゼミ・輪読は、周りの学友や講師から直接的に問題点を指摘してもらえる絶好の場です。 私は、たくさんの問題を解くことや、急いで進めることを目指すよりも、 少数の問題設定・定理・具体例・引用文献の手法分析・解析にじっくり取り組み、徹底的な分析と理解を試みる方が良いと思います。 問題や題材を徹底的に突き詰めて考えて自分の言葉にできるくらいに理解すること、そして理解していないことを明確化することは、研究活動全般においても最も重要な姿勢です。 自分が説明したい内容については、一文一句のがさず理解することを目指すべきです。 そのうえで、不明な点・わからなかったところを「分からなかった」と述べ、その不明点と自分なりの理解を比較すると良いです。 教科書が根本的に間違っていることや、数式のミスタイプ(タイポ)も往々にしてありますからね。
たとえば、ロトカ・ボルテラ競争モデルの背景にある現象論的な仮定は何か? 密度依存的な死亡と密度依存的な繁殖成功低下とは、どのようにモデルで区別されるか? こういった仮定を理解し尽くすことは、研究実践の上でも有効な訓練です。
そして分かったふりをしない。自分を誤魔化すのも、そしてわかったふりをして発表において他人をも欺くのも、時間的・機会的損失です。 「だいたいこんな感じ」という曖昧な理解ではなく、徹底的理解を目指してください。 必要に応じて参考文献を読み解くことも必要です。
また、輪講においては基本的にレジュメがあると良いです。数学など理論系の題材では手書きの場合もあります。 (ただ手書きは、視覚的再現性が低いので、LaTeXなどを用いてタイプセットしたレジュメのほうがベターかなとは思います。) そのレジュメも、題材を訳したもの、というのでは不十分です。それならもはや、ChatGPTに任せたほうが速いし多分正確です。 レジュメを作るうえでは、(1)著者の主張と(2)自身の理解、を明確にわけるべきです。 もしも自身の理解が著者の主張と一致している場合、原則的には著者の客観的主張を要約して記述すると良いと思います。 ただしそこで意訳しすぎてしまうと、自己解釈が入り混じってしまうので要注意です。また、必ずしも自身の理解と100%は一致しないとも思いますので、自身の理解などについては、それが自身の理解であることがわかるように補足すると良いです。 体裁としては、題材通りのsectioning(章・節などの明示)を行ない、箇条書きを行なうのが良いのではと思います。 全文和訳することを推奨する研究室もありますが、私個人的には、英文解釈のための訓練は別機会に行なうべきという考えです。
理想的には、本番前に練習をすると良いと思います。練習の目的は、パフォーマンスをうまくやることではなくて、理解した内容を自分の言葉として口に出せるかどうかを確認するためです。 案外、話しているうちに詰まってしまうこともあります。それ自体は良いのですが、詰まってしまうとどんどん焦ってきてしまって、自分の伝えたい内容を伝えられなくなることも多いです。
■ 輪講ゼミの本番
実際の本番ではとにもかくにも、最初に発表内容の概要を話すとよいと思います。 自分がわからなかったところがあったかどうかについても軽く言及すると良いでしょう。
そして、話す場合は必ず、自分の理解と記述内容とを、相対化しましょう。これはレジュメ作成時の原則とも共通しています。 しかし、内容だけでなく、形式も大事です。発表は、講釈ではなくコミュニケーションです。そのために、
- はっきりと、
- ゆっくりと、
- ネクサス(主語と述語/結論)を明確に、
- 「えーっと」、「あの」などのフィラーを減らすことを意識しながら、
- 自己混乱に気をつけ、
- 頭の中を整理しながら
話しましょう。また、板書にしろレジュメにしろ、
- 定理は明文化する
- 演習問題は、前提・問題文そのものを明文化する
- 論理関係を明確化する
- 図を使う
と良いです。聞いているものは前提を簡単に忘れます。書いておくと前提の共有になりますし、凡ミスを防ぎやすくなると思います。
発表はどうしても岡目八目になりがちです。計算しているときの符号のミスなどはその典型です。 書き間違い・言い間違いを指摘されることを恥と思う必要はありません。 しかし自分の理解が怪しいような状態で発表を「こなす」ことを目指すのは無益です。 有益な場とは、題材に関する参加者の相対理解が深まる場です。
なお、個人的には、アウトラインこそ確認する必要はありますが、ノートを見ずに発表することを目指すと良いと考えています。 それくらいに準備の段階で見通しよく理解を深められていると、発表がオマケとなりうるほどにまで、実力がついたことの証左となります。 もちろん難しいですが、数学を学ぶ学生は特に、こうした理想形を意識しておくと良いです。 まあもちろん、発表時間がたんまりある場合にしか、この方法は採用できません。また、そのためには丁寧に練習しておく必要もあります。
質疑、あるいは参加者からの質問に答えるのは、とても難しく、とても本質的なものです。 その際、 質問は最後まで聞き、質問に返答を重ねないようにするのは徹底 してください。 質問に返答を重ねるのは、賢さを表すことにはなりません。失礼かつ、全体にとって無益です。(同じ理由で、演者の回答を最後まで聞き、コメントや質問を重ねるべきではありません。) ちなみに私はAuditory Processing Disorder (APD)なので、複数の音声を同時処理できません。 また、 イエスかノーで答えられることはまずそれを答えてから具体的な内容を説明する ようにしてください。 たとえば「10行目のここ、これはAという意味ですか?」と聞かれたら「はい」ないし「いいえ」でまず答えてください。 それを答えることなく説明をだらだらと行なわれると、質問した内容についてイエスなのかノーなのか、回答がとてもわかりにくいです。
私は朝よりも夜のほうが仕事に集中しやすいタイプでした。これは、高校生の頃からそうだったと思います。 大学生の頃は、講義が終わるとすぐに図書館へ行き、食堂でご飯を食べ、図書館が閉まる10時まで勉強し、 そこから京都大学・中央図書館に設営された「24時間自習室」へ移動し、だいたい12時くらいまで勉強していました。 そして朝の講義は出られません。出られないので、友達にノートを写させてもらっていました。 本当に、記憶にある限り、一限の講義には数回しか出た記憶がありません。 まあ中間・期末テストや中間・期末レポートが出せればいいので…(出席をとる講義は絶望的)。
このようなスタイルは大学院に進学しても続きました。 自分のデスクを要塞化し、昼に来て深夜に帰る生活を続けていました。 大学院は九大で、しかも箱崎キャンパスという、飲食店のバラエティが凄まじく高い環境に住んでいたので、 深夜にラボを出てご飯を食べて帰る、というのが当たり前でした。 いざとなったらスーパーもあるし、コンビニは当然24時間営業。深夜でもご飯を得るのは、当然ながら簡単でした。
ここで直面するは、夜型生活の第一問題。九大は夜の交流会、いわゆる飲み会が多かったということ。 飲み会はそれ自体が非常に重要な交流の場なので、参加することの恩恵が非常に大きいのです。 これが飲み会に出られない子育て研究者にとってアンフェアなしくみになっているということは残念ですが、現状として、交流会は夜が多いのです。 夜型研究者にとって、これは致命的です。本来であれば、研究作業に充てられた時間が、飲み会に飲まれていくのです。 飲み会しながら論文は書けないし計算もできない。つまり飲み会では研究は進まない。 そして飲み終えた後に集中して作業できるはずもなく、作業時間そのものがなくなってしまうわけです。
私には幸いにも、夜型スタイルを変更せざるを得ないチャンスがありました。国外に住み始めたことです。 初めて一人で住んだ外国地域は、フランスのモンペリエでした。 まず、毎日外食すると破産する! また、スーパーが19時に閉まる! そしてコンビニがない!(なくはないけど、出来合いのものなど売っていません。) そうなると、ご飯を作る必要があります。 そのためには、スーパーに行く必要があります。 そのためには、18時ごろまでにラボを退勤する必要があります。 しかも、フランスのランチ文化は大きい。 毎日一時間以上はランチに費やします。その後はもちろんコーヒー。 そうすると、十分な作業時間を確保するためには、朝から活動せねばなりません。 この事情は、二番目に住んだローザンヌ(スイス)でも同様でした。
ポスドクではカリフォルニアのバークレーに住みました。 ここは治安がよろしくございません。 18時にラボを出るのは少し怖い。 ということで17時過ぎにラボを出ることにしました。 するとスーパーの閉店にも間に合います。 そもそも、海外のキッチンはコンロが非常に豪華です。 3つは当たり前で、私が住んでいたアパートには、4つ、しかもオーブンまでありました。 そりゃ、腕を振るい料理するわけです。 そうなると、生活に否が応でも「リズム」がうまれます。
こうして今でこそ、準朝型のリズムで生きていますが、私はこれは根本的にとても大事なことであると思います。 なぜなら、研究は一人で行なうものではなく、いろいろな人との交流の中で生まれるものだからです。 また、太陽の光に当たる時間と精神衛生の関係性も考えると、 やはり日中に活動したほうが良いかなと個人的には思います。 日中にしか対応できない仕事や、対応してもらえない仕事もあります。周りとの足踏みを揃えることには一定の価値があると言えるでしょう。 もちろん、人によっては、夜に活動したほうが捗る、あるいは気分が優れている、という人もいると思います。このあたりは、私の専門分野でないので、直接的な助言は控えます。 その場合は、医療機関に相談するなど、なるべく日中の活動に支障をきたさないようにされると良いかもしれません。
指導者からすると、やはり日中に顔を出さない学生がいた場合、単純に心配になってしまうと思います(少なくとも海外では、ラボに数日でも顔を出さなかった場合、とても心配されました)。 健康あっての研究ですから、可能な限りは、体調を整えられるような内的動機づけを持てると良いと思います。
どんなに成果を残している研究者の研究も、最初は手探りのヒヨコ状態から始まります。 学生の数年間というのは、時として闇雲な手探りを、方向性・一貫性のある目標遂行プロセスへと変貌を遂げさせる時期です。 これは思った以上に難しい変化だと思います。キャリアは30年程度あるとして、キャリアの中で使い続ける技術を数年間で身に付けねばならないのです。
例に漏れずというか、私はこの点に関して、大きな失敗を犯したという自負があります。 私がPhDプロジェクトとして修士課程から取り組んだ問題は、移動分散の進化でした。 というと簡単そうに聞こえますが、実は理論的には、込み入った分野なのです。 進化ゲーム理論はまだしも、血縁選択理論・集団遺伝学理論(の初歩)など、適切な知識や手法をカバーしている研究者人口がかなり限られるのです。 今でこそ、人に教えられる程度には習熟した理論ではありますが、ややタコツボ化している傾向もある、いわば「マニアック」な分野なのです。 さらなる問題は、とある近似手法が頻繁に使われるという事情もあって、数学的に厳密に勉強しようとしても、資料が更に限られる。 資料にたどり着いたとして、非常に難解に書かれてあったり、記号が複雑であったり、はたまた出版社によるタイポが大量に紛れ込んでいたり(これら傾向は相関があり、独立ではないと思いますが)。 博士課程2年生の段階で、それら論文を「解読」するために数ヶ月を費やすということもザラでした。
そんなに大変ならそのプロジェクトに見切りをつければいい、というのは一つの考え方です。 しかし、学生に、うまく見切ることができるでしょうか。できる人はいると思います。でもできない人も多いと思います。 コンコルドの誤りである「せっかく今までやってきたんだから…」にも陥りやすいですし、 見切った先のプロジェクトが、的確な方向性かどうかもわからないわけです。 私はあまり指導教員からの直接的指導を受けてこなかった(それは非常に良い訓練でした)ので、深く考え込んでは頓挫し、見切っては新しい問題に着手して深く考え込み、を繰り返していたように思います。 このやりかたは全くおすすめしません。
もしも自分が学生の頃に戻るのであれば、どうしたいか。 これはおそらく理論生物学特有の事情なので、他の分野についてはよくわかりませんが、 真っ先に考えつくのは、「まずは研究の作法を知る」です。 具体的には、以下のような段階を(厳密に順序を反映しているわけではなくとも)経ることが重要です。
一つめは未解決問題の発見と見通しを立てることです。 問題発見は根本的な前提なのですが、その問題を部分的にでもいいから解決できる見込みがあるかどうか、をまず判断せねばなりません。 この時点で、「まずはやってみよう」ということにアクセルとブレーキの判断をはたらかせる必要があります。 これはとても難しいことですから、指導者と議論しながら進めると良いと思います。 二つめは問題解決手法の習熟です。解きたい問題に応じて、解決手法を身につけるのです。 三つめは問題解決とその相対化です。問題を具体的に解決し、さらに膨大な先行研究に対してどのような意義を持つかを、先行研究を参照しつつ調べねばなりません(もちろん、これはどのステップでも必要ですが)。 四つめは人に説明することです。学会やゼミなどでアイデアや結果を共有し、他者の意見を見聞きする必要があります。 (ただし、このステップがなくても成立する研究は多くあるとは思いますが、査読者にも適切に説明する必要があることは念頭に置くべきです。) どんなに自身の満足のいく形で結果を示したとしても、図・解釈などを通じて、他者を説得できる(あるいは、自分が他者の理解を助ける)必要があります。 五つめは情報整理です。引用文献や解析内容、あるいは数値計算のコードなど、その研究内容を中心にして、情報が膨らんでくるはずです。 その情報を適切に整理し、いわば取捨選択する必要があります。 六つめは研究環境構築です。これは、数値計算や論文執筆などの環境を整えるということに加えて、デスクや食事や寝床など、物理的環境の整備も含まれます。 そして最後は、執筆・改訂・投稿・査読者対応・再改訂・掲載にこぎつけることです。何ステップもありますが、要は執筆して掲載まで持っていくということです。 一般には、これら多くの段階を、時として行ったり来たりしながら、進めていくことが必要になります。 もちろん、上の段階は単純化しているので、もっと複雑に分解することも可能です。(そうしたとしても、下の結論は変わりません。)
さて、こんなに多段階のプロセスなのだとすると、とある問題が生じます。 たとえば、地点Aから地点Bへ自転車で行き、地点Bから地点Cへ泳いでゴールへ行くという、トライアスロン(からランニングを除いたもの)を考えます。 このとき、競技者が自転車を漕ぐのが抜群に速くても、泳げない場合、ゴールには決してたどり着かないのです。 研究も同じです。どの段階でコケても、論文掲載には至らない、あるいは至る確率が著しく低下するのです。 仮に、これら七段階の課題を適切に対処する「能力」の合計値がだれしも同じくらいであると仮定とします。(その能力は、数値的に測定できると仮定します。) すると、もっとも論文掲載に至りやすいのは、どの能力も均等に備わっている人物であることが、数学的に簡単に証明できます。 たとえば、未解決問題の発見が地球上の誰よりもうまかったとしても、解決手法を身に着けていないなら、決して論文掲載に至りません。 とても単純化された帰結ではありますし、定性的な結論でしかありませんが、これが現実です。
学生の間には、限られた時間の中でこれらの能力をバランスよく身につけることが必要不可欠です。 そのためには、いずれの段階も経験せねばなりません。 この段階をすべて経験して初めて、自分にとってこれから向上させたい部分がわかります。 この7段階を一括りにして、私は「研究の作法」と呼んでいます。
この研究作法を身につけるためには、もう一つ大事なことがあります。 まずは一つのプロジェクトに集中することです。 いろいろなプロジェクトを並行してハンドルし、適切に研究作法を経ていく…。 ああ、これができればどれだけ素晴らしいことでしょう。 できる人もいると思います。しかし極めて困難です。 もちろん、研究頓挫のときのためのリスクヘッジ(保険)はあったほうが良いです。 でもそれは研究プロジェクトのマイナーシフトによって達成すべきであって、独立なプロジェクトを複数まわすという形で行わないほうが良いです。 地点Cへ行く予定だったのを、地点C’に変更する、くらいのものであったほうがよいです。
私が上の研究作法の習熟という点で重要視しているのは、多かれ少なかれつぶしがきくやり方であるという点です。 いったん身につけてしまえば、どんなプロジェクトを始めるにしても、ある程度は適用可能な作法なのです。 かといって、機械的作業というわけではまったくなく、試行錯誤がたくさん介在する、とても創造的な活動なのです。
では最初のプロジェクトをどのように選ぶか、という疑問も生じるかと思います。 この点に関しては先述のごとくとても難しいので、一般的な主張が難しいと思います。 理論生物学の研究に限って言えば、「先行研究の拡張」などを目指すのが良いのかもしれませんが、「本人にとって、面白いと感じられる問題」ということも大事にしてほしいと思います。 そしてその問題を解決するために、先行研究を調べすぎなくて良いと思います。「理論武装」しすぎるとアイデアが凝り固まってしまうこともあります。 なお、学生の頃の興味というのは、時間が経てばあっという間に変わっていくので、固執しなくても良いと思います。指導教員と相談しましょう。
結論。 まずは研究の作法を身に着けましょう。それを身につけると、他のプロジェクトを開始したときも使い回せる作法であり、再現性があります。 さらには、そうした作法を身につけることで、共同研究プロジェクトでも中心的役割を担えるようになります。 そして作法を身につけることを目指すうえでは、プロジェクトに集中しましょう。手当たり次第に手を出すのはやめましょう。 最初のプロジェクトの選択は指導教員としっかり相談して決めると良いと思います。 こうした研究作法をとにもかくにもまずは身に着け、さらに磨いていくことこそが、自立への第一歩であると私は考えています。
「コミュニケーション能力」というのがもてはやされるようになって、何年経ったのかはわかりませんが、 研究において意見交換が重要なのは言うまでもないでしょう。 意見交換するために必要なのは対人関係で能力を発揮することではなく、議論を通じて相互理解を深めることだと思いますし、 どのような(2点間)距離感や(多点の)重心をとるかは、人それぞれだと思いますから、「コミュニケーション能力」については私は何も申し上げられません。 それでも、人と意見交換するうえで私が心がけていることを書きます。
そもそも自分は喋りたがりなので、相手から話題を引き出して話を聞くほうを優先したいと思っています。思っているだけかもしれませんが。 そのうえで心がけるのは、Yes/Noで答えられる質問には、まずYes/Noで返答するということ、 相手が理にかなった内容や態度で話しているときには、自分の発言を重ねずに最後まで聞くということ、 修辞疑問文などのレトリックを使って議論せず、直接的な言い方をするということ、 そして攻撃と批判(分析)はすべて紙一重であるから、言い方には気をつけるということです。 これらは科学的議論の基本的態度であると私は思いますが、日常生活でもこういう態度は心がけたいと思っています。
たとえば、私は疑問文で指摘しません。よく(?)、「なんでこんなことしたの!」といって子を叱る親が漫画では描かれますが、 私はそれはすべきでないと思っています。(もちろん、子ども相手だとこんなことは理想論でしかありませんが。) 自身の指導する学生に対してもそうだし、学会でもそうです。疑問で指摘するのは修辞疑問文で、レトリックであり、ハイコンテクストです。 私ふくめASD傾向の方には理解できないことも多いし、レトリックを議論に持ち込み「察せ」というのは、すこし無配慮だと私は思います。 100%断言しますが、修辞疑問文でしか指摘できない内容は存在しません。 せめて、「自分は◯◯だと思う。でもあなたの結果はそうなっていない。どうでしょう、この違いはどうしてだと思いますか?」などの言い方をします。 これも日常でもそうだと思います。
また、ミーティングのスケジュールを組む場合には、まずこちらが出席可能な日付を提案するということ。 最近は自分のカレンダーの予定が埋まりに埋まっているため、実行できているかどうかは相当あやしいですが、 相手へのコミットメントはこういうところから始まると思っています。 そして自分の都合がつかなくて断った場合や、キャンセルしてしまった場合は、自分から埋め合わせのために出席可能な候補日を提案するということです。 それがコミットメントですし、それをしないのなら無理に一緒に仕事をしなくてもよいと思います。(指導教員との関係性となると話が複雑なので、ここではそれ以上は書きません。) この方針も日常生活でも心かけたいと思っています。 ただ、これらはやはり原則です。
最後に、挨拶をするということ。 同じ職場に属している仲間同士なら、挨拶をしたいものです。 同じ部屋で仕事をしている人には挨拶して帰宅・出勤したほうが良いです。挨拶から信頼関係は生まれます。 私の指導教員の巖佐庸先生は、(研究指導はあまりありませんでしたが)行動で指導してくれました。 彼は、清掃係の方と廊下ですれ違うと、「いつもきれいにしてくださって、ありがとうございます」と言い、 構内から出るときには守衛の方には「今日もごくろうさまです、お先に失礼します」と言っていたのです。 私は、巖佐先生の発言や助言ではなく、その背中から、そういうところを多く学んだように思います。
英語は、科学活動から切っても切り離せません。国際的に可視性の高い科学論文は英語で書かれているし、 国際学会の公用語は基本的に英語です。そもそも空港や飛行機などでは英語を話すのが当たり前ですし、 国外からのお客さんも英語で話しかけてくることでしょう。
私は学部生の頃、英語を使って日本語を留学生に教えるというボランティア活動をしていました。 もちろん私はペラペラに話せるわけではなく、発音もいわゆる「日本人アクセント」だったと思います。 それでも、英語を話すというハードルが下がったきっかけにはなったと思います。
大学院に入ってからは、ひっきりなしに外国からお客さんが来ましたから、英語を使って議論する機会を多く持つことができました。 これは私の環境的幸運さでしょう。 はじめて外国に一人で行ったのは、D1の夏でした。ロンドンとヨークをハシゴしたのです。 そのときは、British Englishに少し苦労したのを覚えています。 そして痛感したのは、自身の英語能力の低さ。 私の場合は、ある点に関して、それが顕著でした。
聞き取れない…
私はAPDを持っていて、聴覚が人より過敏なのです。英語で発表を聞いても、聞き取れるのはお世辞でなく、数%でした。 発表を自分なりに理解して質問をしてもその返答を聞き取れないこともザラでした。 そこでまず行ったのはリスニング練習。流し聞きとか、集中して聞くとか、ディクテーションなど、いろいろ試しました。 しかし私にはこれはあまり効果がありませんでした。 どれだけがんばっても、単語と単語のつながりとか、母音のつぶれた発音などを聞き取れませんでした。 (これも、私がAPDであるということが関わっているのかもしれません。複数の音が重なると、聞き取れないのです。) とにかく、聞き取りのためのリスニングは、自分にとってはあまりうまくいかない学習方法でした。 そこで別のアプローチをとることにしました。
単語とその発音を知る
根本的に、なぜ聞き取れないか?それを考え、調べ、至った結論。「話せないから」と考えました。 たとえば、“complementary”(補完的)という(基礎的な)単語があります。 この単語を知らずに聞き取れるか?無理です。だって知らないから。知らない単語は発音できません。 ではまず知って、そして発音して使えるようになろう、ということで論文で登場した未知の単語をメモするノートを作りました。 そしてそれら表現を実際に発音する練習を行いました。 何より重視したのが、第一強勢、いわゆるアクセントです。 単語全体の中で、アクセントは、発音の滑らかさ以上に、意味全体を支配する効果を持っているとすら思います。 アクセントは、発音記号や実際に聞いて発音することで、覚えることにしました。 並行し、R/L, PH/F, W/V, など微妙に違う発音の仕方などを徹底的に学びました。 発音の仕方やその違いについて、ネイティブに直接口頭で質問する、ということも積極的に行いました。 どの方も親切に教えてくれたのが良かったです。
話す練習をする
自分がもっとも自分の研究を売り込めるのは、(一般的にはたぶん)発表時です。 そこで、英語をスラスラと話せる自分を夢見て、自身の英語発表を録画し、それをあとで見返すということを行いました。 これはもう効果てきめんです。自身のプライドを見事にズタズタに引き裂いてくれました。 そもそも自身の声には違和感を感じるのに、さらに英語発音で、そして謎に過度なジェスチャー。絶望です。 でもこうした絶望の境地に自身を追い込み、何度もそれを乗り越えることで、できるようになったことが一つあります。 アドリブです。 発表するとき、セリフを決めてしまうと、どうしてもそこに書かれた表現ばかり使ってしまうのは当然です。 しかし、それでは、単語などが「飛んだ」とき、リカバリできません。 この苦行は、実は練習を行うという習慣にも繋がり、 話すたびごとに異なる表現をアドリブで用いられるようになりました。 これが身につくと、とても気楽です。詰まってもその場で考えて言い換えればいいのです。
ある程度話せるようにはなり、聞き取れるかも?と、感じられるようになったのは、 学位を取ってアメリカに住んでいたころです。 毎晩、ドラマ「FRIENDS」を観て、使われた表現を真似して、聞き取って、ということを繰り返していました。 といっても料理しながらとか、ご飯を食べながら、あるいはシャワーを浴びながらですから、 机に向かって真剣に取り組んだわけではありません。しかし、聞き取れなかった箇所は巻き戻したり、自分で発音してみたり、ということは行っていました。 何度も同じ話を観るということもしました。 気軽にできてしかも習慣化されたこの行動は、英語の聞き取りを圧倒的に高めました。 「聞き取りたい」という目的を達成するための手段として「話す」を選択し、私には、それがうまくいったようです。
ゆっくり話す!
さらに聞き手の立場として、「自分が聞いていてわかりにくい英語」の特徴を考えました。 一つは、早口英語です。 ネイティブの早口英語はつぶれかたがパターン化されていることが多い(私の観測範囲)のですが、 非ネイティブの早口英語は、個人によって様々で、今でも苦労しています。 特に、オンラインでセミナーを聞く機会が増えた時期には、「早口で話すメリットは一つもないな」と思いました。
そこで私が徹底しているのは、とにかくゆっくり話す、ということです。 その1つめのメリットは、「話すために考える時間を自分で生み出せること」です。 話すためには思考が必須です。 その思考のスキを自分で生み出すのです。 正確にいえば、話す速度と考える速度を合わせることを意識しています。 私は頭の回転は速くないし、ゆっくり考えてゆっくり話したいのです。つまり個人の事情です。 2つめは、「発音を丁寧にできること」。 早口で話せるとかっこいい!…という価値観もあるとは思いますが、 私はゆっくり話すことで自身の発音を確実に丁寧に行います。それでも発音できない単語もあります。その場合は練習します。 これによって、相手の聞き取りミスや相手が自分の言うことを理解できない、といった状況は極端に減りました。
フィラーに気をつける
早口英語以外にも、自分が聞き取りにくいなと感じたのは、「フィラーの多い英語」でした。 人によっては、“You know”, “I mean”, “well”, あるいは日本的に「えーっと」、「あー」、 などのフィラーを、文として意味のある切れ目以外のところにもついつい挟んでしまいがちです。 さらには、「Yes」とか「So」、「And」を(これらはフィラーではないのに)フィラーとして用いられると、 脳みそへの負荷が大きいなと思いました。 そもそも、そうしたフィラーを多用してしまうということは、話す速度に思考が追いついていないのであって、 物事を論理立てて説明するのが難しいのではないかと思います。 私は、詰まったときには、“uh”などの非常に短いフィラーのみを、最低限はさみます。 (最近は、日本語でも「えーっと」、「その」、「あの」などのフィラーをなくすよう、とても心がけています。 もし話すスピードがゆっくりだと感じられた場合は、ご容赦ください。でも雑談するときは早口です。)
ちなみに、フィラーに関しては非常に多くの研究があります。 一般にフィラーは、(1) 認知負荷を増す;(2) 話す効率性の低下、と考えられています。 たとえば、「えーっと私はですね、その、数理生物学の研究をしておりましてですね、えー、最近の興味はといいますと、あの、多様性指標の理論的側面でして、」と言った場合と、 「私は数理生物学の研究をしておりまして、最近の興味は生物多様性の主に理論的側面です」といった場合を比較して想像してみると、 なんとなくどちらのほうが「良さそう」かわかると思います。 一方で、メリットとして、フィラーを用いると、 (1) 聞き手に対して、自身が話している途中で、まだこれから話すよというシグナルの役割を担うという研究や、 (2) 文と文の間をつなぐ役割があり、話す内容に対する聞き手のエンゲージメントを高めるという研究、さらには (3) 日本のような文化圏では、フィラーを用いることが丁寧であるという印象を与えるという研究もあるようです。 最後の点はまだしも、(1), (2)に関しては、私が心がけていた「フィラーを使いすぎずuhなどを用いてゆっくり話す」というのは、 偶然にも、研究によって支持されていたようです。 これら功罪における共通点は、「フィラーには文章の中での意味がなく中立的な役割を担う」ということなのかもしれません。 (なお、(3) の「丁寧さ」という時代によって変わる社会的観念についてのものであって、とにかく人によるので、 私は丁寧さのためにフィラーを用いるということは行わないと思います。丁寧さというのは、フィラー以外のものを使って達成できると思います。)
なお、“so”, “and”, “yes”をフィラーとして用いるのはやめたほうがよいと私は思います。 これらは、論理的に明確な意味を持っている言葉です。 フィラーの「つなぎ」としての中立的な役割を担えません。論理的な言葉は論理的に用いるべきだと思います。
言語としての違いを知る
これは「以前から私が考えているが科学的な支持を受けているかを知らない怪しい言説」として いろいろな人に話していることです。 日本語は、わびさび豊かなのもあってかあらずか、結論が最後にきます。 たとえば、 「マイクなら昨日、スーパーでりんごを買っているのをみましたよ」 という文章において、結論は(この文章から察するに)、「話者がマイクを見た」ということです。 一方で、英語ではどうなるかというと、“Mike? I saw him buying apples at a supermarket yesterday” となって、結論が最初にきます。 英会話では、このように結論の順番の逆転が起こり続けます。 私が「最後まで話を聞く」ということをとても重要視しているのは、 日本語のこの構造に理由があるのですが、 英語の場合、最初の方を聞いたら、ある程度は言いたいことがわかってしまうのです。 後半はだいたい、補足的説明です。英語はその意味で、冗長な言語なのです。 英語での会話のときもひっきりなしに、jump inが起こり続けるのは、これが理由です。 みなまで言わなくてもわかるので、途中で相手の言葉に重ねるのです。しかもそれが失礼であるという共通理解は、あまりないように感じます。 (地域などにもよるでしょう。) しかし日本語の構造に慣れてしまっていると、最後まで聞く習慣があるため、結論を最後のほうに期待してしまうのです。 結果、結論を早々にキャッチし次々に会話に飛び込んでくる人たちの波に揉まれ、取り残されてしまうのです。
この違いは、英語習得においてとても大事です。最初の数フレーズに集中すればなんとかなることは実際多いのです。 英語は3語で伝わりますという本を、興味半分ですこし読んだことがありますが、 遠からずあたっていると私は思います。 逆に言えば、話すときにはこれを気をつけるとよいのです。最初に言いたいことを言って、あとから補足する、というのが英語のリズムです。 そうすれば、英語の構造として相手に認知負荷を与えにくいのでは、と思います。 (最初の何単語をきけば、あるいは何秒間をきけば、文章全体の意味がどのくらいわかるのか、という定量比較研究を探そうとしたのですが、見つかりませんでした。)
英語を使うのは総合的な技能である
以上のような形で、英語の話し方・聞き方を練習していたのは、私にとっては非常にかけがえのない財産になっています。 ただ言えるのは、「アメリカに住んだら英語が話せるようになる」という命題は正しくないということです。 話せるように鍛錬するのが必要であって、住めば慣れて話せるようになる、ということはありません。 「話せるようになればなるほど、話せるようになる」という構造になっていると思います。 それは、話せるようになるともっと積極的にコミュニケーションをとろうという動機づけが生まれるから、というのが考えられそうです。 喋れないとさらに引っ込み思案になってしまいますよね。 いずれにせよ、英語習得は総合的技術の習熟でもあって、ご自身にとって苦手なことをまずは特定し、そこからスタートするか、あるいはさらに根源的な問題解決から取り組み始めると良いのではないか、と思います。 若いうちに時間をかけて英語を聞いて話せるようになっておけば、割と「楽」で、世間でいうところの「高コスパ」…かもしれません。